第4回 川上浩司氏 日本の医薬品業界を斬る、若きエヴァンジェリスト 最年少、京大教授が成功への道しるべをしめす!(2)

ボスとの出会いが人生を大きく変えた!

―――博士課程終了後は家業を継いだのですか?

 

川上

大学院に進んで二年目の後半に、癌研究のための米国留学の話が出まして、声をかけていただき、米国に留学する事になりました。私は米国のNIH(国立衛生研究所)に行くものかと思っていたのですが、実際にはFDA(米国連邦政府 食品医薬品庁)に行く事になったのです。それまでに学んできた英語なんてまったく役に立たないだろうし、実際にやって行けるか不安はありましたが、当時は、箔がつくというか、そうした経歴も後々に役立つだろうと思い、行く決心をしました。

 

京都薬科大学

田坂茉利


―――ここまでのお話をうかがうと、順風満帆な人生に見えます。渡米して米国の先進的な医療を学ぶ事で、さらに成功の道が開けたのでしょうか?

川上

  そんなカッコいい話じゃないんです。たしかに日本にいれば、“お医者様”と言われますし、恵まれた方だとは思いますが、米国に行ったらそんなわけにはいかなかったんです。英語もロクに喋る事ができない私のようなものは、ただの移民の若造、という見方をされるわけです。

 

 それで、とにかく一所懸命、人のまねをしてでもがんばりました。さまざまな事を学び、身につけて行く毎日でした。その介もあってか、最初の3年間では研究員としてのいくつかの発見があり、業績も数多く重ねる事ができました。そうしている内に、臨床医として日本に戻るのではなく、このままアメリカで頑張っていこうという決心したのです。

株式会社フューチャーラボラトリ

代表取締役社長

橋本 昌隆


 その頃、テキサス大学の癌センターにAssistant Professorのポストを見つけ、そちらに行こうとしていたところに、FDAでの私のボスだったRaj K. Puri氏(FDA, CBER,Div.of Cellular and Gene Therapies,Director)が引き止めてくださって、FDA-CBERの長官と話して僕のためにポストを作ってくれました。いま思えば、このボスとの出会いが私の人生を大きく変えたんだと思います。

 

 そうして、米国の国民の健康福祉に尽くすという宣誓もして、FDAの役人になりました。そして、その後の3年間、臨床試験の審査業務や研究官としての充実した経験をしました。Puri氏は、いずれ私を米国にとって必要でもっともいい影響を与える人物という事でグリーンカード取得を推薦してくださり、移民局からその許可もおりて、アメリカ人になるつもりでした。研究を続けるために残ったのですが、薬の審査(*)という仕事もおもしろいと思いました。

※CBERでは生物製剤が市場に出回る前の臨床試験、承認の審査を行い、いわば薬の関所のような役割を担っている

 

―――すばらしいボスに出会い、着実にキャリアを積んでいた米国の生活を、なぜ終わらせ、帰国する事にしたのですか?

 

川上

父が心筋梗塞で倒れたのです。それも倒れた時は家族から知らされず、米国でがんばっているのだから、知らせるな、と言っていた事を後から知りました。それで、(親が倒れたのにそばにもいない)これは人としてどうなのか、と思い至り、ボスと相談して帰国する事にしました。折しもクリントンからブッシュへと政権交代した時で、ボスからも移民がこれ以上出世するのは難しい時代になった、と言われました。

 

 帰国にあたっては、国立がんセンターの先生を介して、いくつかから受け入れていただけるお話をもらえました。ちょうどその頃から、日本にもFDAでの経験が重要だ、という意見も増えていたようで、いいポストがありました。その中で、東京大学大学院医学系研究科(先端臨床医学開発講座)という寄附講座に行ったのですが、当初は助手に、という話だったので、思い切って「助手では……」と申し出たところ、助教授という事で受け入れていただけました。 交渉はしてみるものですね。

 

 

助手ではなく助教授に、という交渉は日本人ではなかなか言い出せる事ではないでしょう。このように自分の評価を正当に主張できるのは、川上氏が米国での生活や経験から身につけられたからではないでしょうか? 交渉や主張が苦手な日本人としては、見習うべき事と言えるでしょう。そして、川上氏は、いまは活躍の場を京都大学に移し、教授という立場で教鞭と研究、そして医薬品業界の活性化に尽力する日々を送っています。